Believing in Myself

苦手だった英語を克服し、アメリカで働く2児の母のブログ

残業、休日出勤があり得ない、アメリカ人の働き方ってどうなの?

アメリカで働いている。

親会社が日本の、アメリカの会社だ。

 

オフィスには300人ちょっとの従業員が働いている。

圧倒的に多いのが米人、少しの中国人、最近増えてきたのがインド人だ。

親会社から出向して来ている日本人が20人ほど。

あと、わたしを含めた現地採用の日本人が4-5人いる。

 

わたしは通訳/翻訳などをしたり、業界の市場などを調べる仕事をしている。

周りにいる米人はみんないい人で、働きやすい。

 

が!言いたいことはたくさんある。

 

日本で働いていた、ということもあり、

アメリカ人の仕事に対する姿勢には驚かされるものがある。

 

まず、アメリカ人は基本家族優先。

どんなに仕事が忙しくても、家族の行事は絶対はずさない。

それはいいことなんだけど。。

 

自分の子供が生まれる時も、仕事で病院に行けなかった、

なんて言ってる日本人など、彼らに言わせれば言語道断。

父親になる資格、既にないだろ、くらいの勢いだ。

 

アメリカ人は基本、共働きなので、女性もそうだ。

子供の学校行事、お誕生日パーティなどは、忙しくても必ずやる。

仕事に捧げる人生なんてまっぴら。

仕事より大切なものが私の人生にはたくさんある。

そして、そういう自分を誇りに思う。

と、わたしの知っているアメリカ人は口をそろえて言う。

 

ま、それはそれでいいんだけど、仕事はしてよ、といいたい。

 

残業も基本しない。

仕事が残っていても、基本しないのだ。

 

今週末、アメリカは3連休だ。

メモリアルデーという祭日で、土、日、月とお休み。

祭日の少ないアメリカでは、貴重なオフで、みんなとても嬉しそうだ。

 

昨日は連休前最後の日、金曜日だ。

我々の課は、今とても忙しい時で、かくいうわたしも連日残業。

主婦であるわたしは連日のようにコンピュータを持ち帰り、

帰ってからも自宅で仕事、という日が続いている。

 

なのに。。。。

まず、金曜日出勤して驚いた。

人があまり居ない。

3連休を更に大型に、と有休を使う人が非常に多いのだ。

半分くらい居なかったのではなかろうか。

 

しかも、金曜日は、出勤している人も頭はすでに休日モードという人が多い。

同僚と会うと、週末は何か予定あるの?

と聞くのが、もはや儀式のように繰り返される。

そして、親切に、聞かれた人全員に、土曜日は、僕の両親と妻の両親と、

妻の兄弟たちと集まってバーベキュー、日曜日は長男のサッカーの試合でしょ、

月曜日は従兄弟のバースデーパーティに呼ばれているんだ。

などと、いちいち丁寧に説明する。

そして必ず、きみは?となる。

 

忙しくてそんなことまで考えてなかった。

っていうか、3連休のうち、一日は休日出勤になる可能性が高い。

 

アメリカ人に休日出勤という言葉はない。

あり得ない。絶対にやってはいけない事のひとつだ。

 

休日出勤なの、などと言おうものなら、

You are crazy! と言われる。

でも、やらなきゃいけないことが終わってなければやらなきゃ。。

アメリカ人にとって休日出勤とは、きちがいがすること、なのだ。

 

午後3時ごろになってふと気付いた。

まわりがやけに静かだ。

見回してみてびっくり。

誰も居ない。

みんな帰った。

おい、マジか。。3時だよ、3時。

 

あーわたしも早く帰りたいな。

でも働いちゃうのが日本人。

 

結局9時まで働いたのは日本人だけ。

 

なんだか悲しくもあった。

 

アラフォーでアメリカの大学に入学

なんでだか、また大学生になることになった。

 

日本の大学、カナダの大学、日本での通訳学校も含めると

成人して以降、4度目の学生だ。。。

 

子供の頃、勉強が嫌いで勉強しなかったツケが

今頃回ってきた感がある。

 

この度は、カリナリー。シェフを養成するコースだ。

シェフの山高帽、カレッジのロゴが左胸に入ったシェフコート、

包丁、皮むき器、温度計などが入ったセットのカバンなど、事前に購入させられ、

授業初日を、迎えた。

まだ何も勉強してないのに、みんな 一人前のシェフに見える。。

 

20人ほどのクラスだ。

わたし以外にも、大人(年配?)の人もたくさんいるし、

見るからに、高校卒業したてのお兄ちゃん、お姉ちゃんもいる。

腕に入れ墨ガンガンな人も。。。

 

初めてのクラスは、カリナリーイントロダクション。

調理学入門だ。基礎を習うのだ。

朝、7時半から午後2時までクラス。

 

まず7時半に、講義室で授業開始。

女性の教官シェフが、料理の基本のき、から講義する。

 

そこからわたしは混乱した。

アメリカでは、オンス、パウンド、カップ、パイントなどで計量される。

 

温度も摂氏ではなく華氏だ。

7オンスの水で溶いたら、350°F(華氏)のオーブンで30分。

なんてことになる。

 

うっ。まずそこで苦労した。

カナダに留学していた頃は、計量単位や温度等、すべて日本と同じだった。

イギリス流か。長さも温度も、容積も。

 

余談になるが、アメリカでは距離もキロメートルではなく、マイルだ。

慣れるには、時間がかかる。

 

講義は、7時半から9時半ごろまで。

その後、休憩をはさみ、キッチンへ移動。

10時ごろから2時までは実習だ。

エプロンや、スカーフ、シェフハットをかぶって、キッチンの準備にかかる。

 

殺菌剤の入った赤いバケツを準備したり、キッチンでのルールを学ぶ。

すぐ料理なんてやらしてもらえないのだ。

 

プロの料理人にとって、衛星管理は何よりも大切。

いくら美味しいものが作れても、食中毒でも出そうものなら営業停止だ。

衛生管理については、入門コースに加え、衛生学というクラスも必須だった。

 

おしゃべりばかりしている子、むっつりとして誰とも話さない子、

教え魔となって、あーでもないこーでもないと講釈タレる子、

さまざまだ。

 

それでも、何日目かには皮むき器や包丁を使って野菜を切ることができた。

日本でいう、いちょう切りや千切りなど、欧米での基本の切り方の練習だ。

 

主婦を何年もやっているわたしにとっては、さほど難しいことではなかった。

しかし、シェフコートに身を包み、見てくれはシェフなのに、

野菜の基本の切り方の練習中に、手を切ってダラダラ血を流している人を

何人も見た。

 

どう見ても向いてないでしょ、と思う子がやたらと居た。

 

今思えば、そういう子は、いつの間にか消えていた。

学校に来なくなっていたのだ。

 

理解不可能なやつもいっぱいだ。

なにしろアメリカだ。

 

それでも、3年後の卒業式の頃には、毎日毎日一緒にキッチンに立って来た者同士の

不思議な絆で感動したものだ。

 

しかし、その後の長い道のりも、卒業の時の感動も、全く想像もできないところに

その時のわたしは居たのだった。

 

 

 

怒涛の大学生活スタート

また大学生になるなんて。

しかも10何年も経って、だ。

 

主人は日本へ帰った。

12歳の息子と8歳の娘、ラブラドゥードルのサンディとアメリカに残された。

残ることを選んだのはわたしだ。

 

大学のインターナショナル スチューデント担当の女性とビザの手続きをした。

主人が調べてくれ助かった。

手続き詳細については別途記載とする。(多分)

 

まず驚いたのが、カリナリー専攻の生徒は、いきなりプロのシェフのような

シェフコートと、山高帽を購入しなくてはならない。

まだ何も習ってない生徒が、一見プロのシェフに見えるのも如何なものか。

 

左胸に大学のロゴが入り、なかなか良い。

 

次に購入しなくてはならないのが、包丁などのセット。

持ち運べるカバンの中に、包丁を始め、ペティナイフ、皮むき器、温度計等、

基本必要な物をセットで購入しなくてはならない。

 

わたしが、その際一番困ったのが、始業時間である。

 

カリナリースクールは朝が非常に早い。

6時には、ベイクショップ(パン、ケーキ部門)が始まり、

7時にはキッチンも始まる。

渋滞がまだない早朝に、高速をぶっ飛ばしても最低30分はかかるわたしは困った。

子供の学校だ。

現地の学校はスクールバスで、最寄りのバス停から乗るが、

当時、息子と娘は、別のプライベートスクールに通っており、

わたしが送り迎えをしていたのだ。

そんなことを言っておられず、無理やり息子は現地公立校に転校させた。

スクールバスで行ってちょうだい。

それでも、スクールバスの1~2時間前にわたしは家を出る。

 

子供もかわいそうだ。

5歳の娘は、近いといえどもどうやって学校に行く?

 

結果、こうなった。

わたしは子供たちを起こして、準備をさせて6時半に家を出る。

子供たちは同時に向かいのお宅へ移動。

そこで1時間程居させてもらう。

本を読んだり、その家の子供たちとテレビを見たり、朝ご飯を食べることも。

 

8時頃、息子はスクールバスで現地公立校へ。

5歳の娘は、そのまた隣の家に移動。

そこの奥さんが娘をプライベートスクールまで車で送って行ってくれる、

という契約を結んだ。

近所の人たちがみんないい人たちで本当に助かった。

彼らのこうしたサポートがなければ、無理だった。

 

主人が日本に帰国して、子供たちとわたしだけの生活が始まった。

朝6時半、私は大学に行く為家を出る。

息子と娘は、まだ暗い雪の中を手をつないで向かいの家へ移動するのだ。

 

まだ眠いだろうに。

 

アメリカに居たい、という私のわがままだったのか。。

胸が痛むことも。。

 

でも、選んだ道だ。

進むしかない。

 

でも、辛いとか悩んだりはなかった。

考えている余裕がなかったのだ。

 

あれから7年。。。

お世話になった近所の子供たちと、うちの子供たち、5人みんな高校生と大学生。

 

いまだに従兄妹みたい。

5人つるんでいるのをよく見かける。

 

 

アメリカに住み続けるという決断

それにしても、無謀な決断であった。

 

フランスからアメリカに来て3年半が経ったころだった。

 

”日本に転勤だって。” 

帰宅したダンナ、不服そうだ。

”はぁ?冗談でしょ”

突然のことで、事態が把握しきれていない私。

”困ったな。” とダンナ。

 

そうなのだ。困るのだ。

だって、アメリカ生活、長くなると思い、家を買っちゃったのだ。

家賃を払い続けるより、持ち家のほうがいろいろお得だし、楽しめると踏んでいた。

日本では逆立ちしても住めない庭付きの大きな家に、アメリカでは住めるのだ。

緑の芝生がキラキラしている、いかにもアメリカって感じの家にだ。

まだ3年ちょっとしか住んでない。

 

子供だって日本語の読み書きが出来ない。

長男は6歳、長女は2歳で日本を離れ、フランスに3年住んだ。

長男はフランスではアメリカベースのインターナショナルスクールに行っていたし、

長女も5歳からアメリカで、兄妹同士の会話は英語だ。

本の学校なんて今さら無理だ。

 

大きな犬もいる。

サンディ。とてもかわいいラブラドゥードルという犬種。

(ラブラドールとプードルのミックス)

 

いや、どう考えても無理でしょ。

だって、第一わたしが帰りたくない。

 

困った。

何か方法はないか。

家族でアメリカに住み続ける方法。

 

不思議なことに、わたしの中に日本へ帰る、という選択肢がなかったのだ。

普通、ご主人の転勤で海外に居て、帰国命令が出たら、家族で帰国するだろう。

だが、わたしの中には、わたしと子供はアメリカに住み続けるのだ、

という考えしかなかったのだ。

 

”わたし、子供と残る。”

主人にそう言ったら、主人は驚かなかった。

知っていたのだ。

”ビザはどうするの?”

 

ご存知の通り、ワーキングビザ等がなければアメリカに住む続けることは出来ない。

これまでは、主人の配偶者ということでビザが下りていたのだ。

その主人が日本に帰ってしまったらビザはなくなるのだ。

子供たちも同様だ。

さて、どうする。。。。

 

考えた挙句、出した結論は、わたしが大学生に戻る、というもの。

学生ビザを取得すればアメリカに住み続けることができるのだ。

子供たちはその被扶養者として滞在できる。

 

でも、どうやって?何を勉強する?

学生ビザを取得するには、フルタイムの大学生になる必要がある。

フルタイムということは、一日の大半を学校で過ごすのだ。

みっちり履修が条件で下りるビザだ。

 

アラフォーのおばさんが、大学生に戻るのだ。

 

うーん、何を勉強するか。

むかーしカナダの大学を卒業した時の専攻は経済だった。

げっ。まさかもうそんなの死んでもイヤだ。。

 

あまり勉強しなくてもよくて、楽しくて、趣味と実益を兼ねてる科目って?

 

あった!コレだ!!

カリナリースタディ。調理学。シェフを養成するコースだ。

食べるのも料理するのも大好きだ。コレだ。コレしかない。

 

地元のコミュニティカレッジのカリナリースタディを取ることに決めた私に

ダンナは反対もしなかった。

”とりあえず日本に帰って、できるだけ早く戻って来るよ。”

とダンナは日本へ帰って行った。

 

子供もアメリカに居たかったので、パパと離れるのは辛いけど、

しょっちゅう帰ってくる、という約束で、パパの留守中、3人で協力して頑張る、

と決めたのだ。

 

息子12歳、娘8歳の時のことであった。

 

はじめまして

はじめまして。

かえで と申します。

 

この度、ブログを立ち上げました。

よろしくお願いします。

 

現在、アメリカ中西部の日系アメリカ企業で通訳/翻訳者として働いています。

 

息子一人、娘一人おります。

 

かくいう私、中高、英語とても苦手でした。

だからといって数学や化学が得意だった訳ではありません。

勉強そのものが嫌いだったのです。

 

英単語、英熟語、構文なんて全く覚える気すらありませんでした。

 

もちろん、数学の公式も、物理の法則もそれ以上に興味はありませんでした。

 

そんな私が今、アメリカに住み、通訳/翻訳者として働いています。

アメリカの企業で、アメリカ人に囲まれ働いています。

アメリカ人と言い争い、アメリカ人と飲みに行く、そんな毎日。

英語が苦手だった昔からは想像できなかったことです。

 

でも今、私はここアメリカに居て、毎日働いています。

息子と娘の日本語はあまり上手じゃないけれど、

ダンナは日本人なので、家の中では基本日本語で。

 

家族で、日本、カナダ、フランス、アメリカと転々としました。

 

こんな私の過去、現在、未来を行ったり来たりのブログにお付き合い頂けましたら

幸いです。

 

よろしくお願いいたします。