怒涛の大学生活スタート
また大学生になるなんて。
しかも10何年も経って、だ。
主人は日本へ帰った。
12歳の息子と8歳の娘、ラブラドゥードルのサンディとアメリカに残された。
残ることを選んだのはわたしだ。
大学のインターナショナル スチューデント担当の女性とビザの手続きをした。
主人が調べてくれ助かった。
手続き詳細については別途記載とする。(多分)
まず驚いたのが、カリナリー専攻の生徒は、いきなりプロのシェフのような
シェフコートと、山高帽を購入しなくてはならない。
まだ何も習ってない生徒が、一見プロのシェフに見えるのも如何なものか。
左胸に大学のロゴが入り、なかなか良い。
次に購入しなくてはならないのが、包丁などのセット。
持ち運べるカバンの中に、包丁を始め、ペティナイフ、皮むき器、温度計等、
基本必要な物をセットで購入しなくてはならない。
わたしが、その際一番困ったのが、始業時間である。
カリナリースクールは朝が非常に早い。
6時には、ベイクショップ(パン、ケーキ部門)が始まり、
7時にはキッチンも始まる。
渋滞がまだない早朝に、高速をぶっ飛ばしても最低30分はかかるわたしは困った。
子供の学校だ。
現地の学校はスクールバスで、最寄りのバス停から乗るが、
当時、息子と娘は、別のプライベートスクールに通っており、
わたしが送り迎えをしていたのだ。
そんなことを言っておられず、無理やり息子は現地公立校に転校させた。
スクールバスで行ってちょうだい。
それでも、スクールバスの1~2時間前にわたしは家を出る。
子供もかわいそうだ。
5歳の娘は、近いといえどもどうやって学校に行く?
結果、こうなった。
わたしは子供たちを起こして、準備をさせて6時半に家を出る。
子供たちは同時に向かいのお宅へ移動。
そこで1時間程居させてもらう。
本を読んだり、その家の子供たちとテレビを見たり、朝ご飯を食べることも。
8時頃、息子はスクールバスで現地公立校へ。
5歳の娘は、そのまた隣の家に移動。
そこの奥さんが娘をプライベートスクールまで車で送って行ってくれる、
という契約を結んだ。
近所の人たちがみんないい人たちで本当に助かった。
彼らのこうしたサポートがなければ、無理だった。
主人が日本に帰国して、子供たちとわたしだけの生活が始まった。
朝6時半、私は大学に行く為家を出る。
息子と娘は、まだ暗い雪の中を手をつないで向かいの家へ移動するのだ。
まだ眠いだろうに。
アメリカに居たい、という私のわがままだったのか。。
胸が痛むことも。。
でも、選んだ道だ。
進むしかない。
でも、辛いとか悩んだりはなかった。
考えている余裕がなかったのだ。
あれから7年。。。
お世話になった近所の子供たちと、うちの子供たち、5人みんな高校生と大学生。
いまだに従兄妹みたい。
5人つるんでいるのをよく見かける。